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第111話 条件

Auteur: marimo
last update Date de publication: 2026-09-06 20:35:59

FJエンターテインメント本社、最上階。

磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。

胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。

エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。

「事務所倒産について一言!」

「不正を知っていたのでは?」

「主演は降板ですか?」

無数のマイク。

無数の視線。

フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。

だが、不思議と恐怖はなかった。

昨日、あの言葉を聞くまでは。

「主演は久遠ひかるのままで」

胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。

救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。

ひかるは橘に促され、扉を入った。

広い執務室。

窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが
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  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第111話 条件

    FJエンターテインメント本社、最上階。磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。「事務所倒産について一言!」「不正を知っていたのでは?」「主演は降板ですか?」無数のマイク。無数の視線。フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。だが、不思議と恐怖はなかった。昨日、あの言葉を聞くまでは。「主演は久遠ひかるのままで」胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。ひかるは橘に促され、扉を入った。広い執務室。窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが静かに立ち並んでいる。そして、藤崎優。デスク越しに書類へ目を落としている。顔を上げない。まるで、彼女が入ってきたことなど些細だと言うように。そこにいるのは、かつて自分が知っていた男ではなく、徹底して感情を削ぎ落とした経営者だった。「座ってください」事務的な声。五年前、あの夜に聞いた声とは別人のようだった。ひかるは静かに腰掛ける。沈黙。ペンが紙を走る音だけが響く。時計の秒針すら聞こえそうなほど、空気は張り詰めていた。この距離。手を伸ばしても届かないほど遠い。かつては、こんな沈黙さえ苦しくなかったのに。やがて優は書類を閉じ、視線を向けた。その目に、感情はない。何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもある。「単刀直入に言います」一枚の契約書が差し出される。「あなたを、FJエンターテインメントが専属で受け入れる」ひかるの指先が、わずかに強張る。分かっていた。それでも、実際に言葉にされると重い。まるで運命を突きつけられているようだった。「ただし、条件があります」来た。ひかるはまっすぐに優を見る。逃げない視線。もう逃げるつもりはない。優は一拍

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第110話 崩れる音

     その知らせは、あまりにも唐突だった。 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。「社長、大変です」 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」 一拍。 空気がわずかに重く沈む。「本日付で、破産申請を出しました」 優の手が止まる。 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。(……ひかるの会社が倒産!?) その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。 だが、それだけだ。 驚きも、動揺も表に出さない。 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。「理由は?」「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。 嵐の前の静けさに似ていた。 優の頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っていた。 ひかる自身に責任がなくても、世間は待ってくれない。 疑いは勝手に生まれ、根拠のない言葉が広がっていく。 彼女がどれほど真っ直ぐ生きてきた人間かなど、面白半分の記事を書く者たちには関係がない。「主演ドラマは?」「制作がストップしています。局側はキャストの総入れ替えを検討中と……」 つまり、久遠ひかるは、降板の可能性が高い。 優は椅子に深く腰掛けた。 背もたれに体重を預けながら、視線だけが鋭くなる。 頭の中で、瞬時に数字が走る。 違約金。制作費。スポンサー契約。放送枠。 そして何より、世論だ。 ひかるほどの女優が、倒産した事務所に所属していた。 それだけで憶測が生まれる。 不正に関与しているのではないか。 ギャラの未払いは? 税務は? 次に来るのは、必ずこれだ。 スキャンダル。「……もう出ています」 橘がタブレットを差し出す。 ネットニュースの見出しが並ぶ。『トップ女優・久遠ひかる 事務所破産の衝撃』『知らなかったでは済まされない?』『主演ドラマ白紙か

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    雨が降っていた。 春先の雨は嫌いではない。冬の名残を含んだ冷たさと、どこか新しい季節を予感させる柔らかさが同居している。街の輪郭を滲ませ、看板の色も人影も境界を失わせながら、余計なものを静かに洗い流してくれるようだった。 藤崎優は、車の後部座席から巨大なガラス張りの建物を見上げた。 灰色の空を映し込むその外壁は、どこか無機質で、近寄る者の感情を拒むかのように冷たい光を放っている。 東央テレビ本社。 かつては何度も俳優として訪れた場所だ。 若手だった頃、期待と不安を胸にこの回転扉をくぐった日のことも、主演が決まった夜にスタッフと笑い合った記憶も、すべてこの建物の中にある。 だが、もう違う。 あの頃の自分とは違う。 そして――今日、この場所で再び会うことになるかもしれない、あの女との関係も。「社長、五分後に制作局との打ち合わせです」「ああ、分かった」 短く答え、優は車を降りる。 黒のスーツに、無駄のない足取り。背筋はまっすぐに伸び、視線だけで周囲を黙らせるような静かな威圧感をまとっていた。 五年という歳月は、彼から“優しすぎた男”の面影を削ぎ落としていた。 今の肩書は、芸能プロダクション《FJエンターテインメント》代表取締役。 俳優・藤崎優を知る者は、もう業界でも少ない。知っていたとしても、それは過去の情報に過ぎない。 そうなることを、自分で選んだ。 表舞台から退き、人を支える側に回ることを。 誰かの人生や未来に責任を持つ立場になることを。 それは逃げではなかった。 少なくとも、そう思いたかった。 けれど、五年前のあの日から逃げ続けてきたものが一つだけある。(久遠ひかる……) 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに痛んだ。 もう五年だ。 忘れていてもおかしくない。 いや、忘れなければならなかった。 自分から手放した女なのだから。 エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れた。「あれ……藤崎優じゃない?」「え、俳優辞めたんじゃ……でも、やっぱりカッコイイ」「今、社長らしいよ」 小さなざわめきが背後に生まれる。 聞こえている。だが振り向かない。 過去に興味はない。 そう決めたのだから。 けれど本当は、興味がないのではない。 思い出せば、そこにはひかるがいる。 俳優だった自分。 『誰より

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第108話『誰よりも、きみだけを —After Silence—』 『愛してると、言わせない』

    再会の予感 雨の匂いがする朝だった。 夜の名残を引きずるような灰色の雲が低く垂れこめ、ガラス越しの街はまだ完全に目を覚ましていない。濡れたアスファルトが鈍く光り、時折、遠くを走る車のタイヤが水を弾く音だけが静かに届いてくる。 藤崎優は、まだ人の少ないオフィスの窓辺に立ち、湯気の立つコーヒーをゆっくりと口に運んだ。 苦味が舌に広がる。 それを味わうように一度目を閉じ、そしてまた開く。 あれから五年。 長いようで、瞬きほどにも感じる時間だった。(もう五年になるのか……) 時間だけが、確実に過ぎていった。 仕事も変わった。 立場も変わった。 自分を取り巻く人間も、見る景色も変わった。 それなのに、たった一つだけ――どうしても変わらないものがあった。「社長、本日のスケジュールです」 控えめなノックの後、橘が差し出したタブレットに視線を落としながら、優は小さく息を吐く。 朝一番の打ち合わせ、スポンサーとの会食、午後は新人オーディションの最終選考。夜には局の重役との会談が入っている。 隙間のない一日だった。 藤崎優は、芸能プロダクションの社長になっていた。 かつては似合わない肩書きだと思っていた。 人の上に立つよりも、作品の現場に身を置き、ただ良いものを作ることだけに集中していたかった男だ。 だが今は違う。 余計な感情を表に出さず、判断は早く、責任から逃げない。 必要とあらば冷酷だと陰で囁かれる決断も下してきた。 守らなければならないものが増えれば、迷っている暇などない。 それが現在の藤崎優だった。 成功者、と呼ぶ者もいる。 だが優自身は、そう思ったことが一度もない。(成功……か) そんな言葉に、どこか皮肉を感じる。 会社は大きくなった。 仕事も順調だった。 誰もが羨む立場を手に入れた。 それでも――。 どれだけ時間が流れても、胸の奥に触れてはいけない場所がある。 『久遠ひかる』 その名前を、優は心の中でだけ呼ぶ。 もう五年も、直接声にしていない。 いや、呼ぶ資格などないと知っているからだ。 デスクに置かれた一冊の雑誌が目に入った。 表紙には、柔らかな笑みを浮かべる女性。 光をまとったような瞳は、見る者すべてを惹きつける。『久遠ひかる』 優の指が、わずかに止まった。 国内外で評価される女

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第107話 「世界へ」

    春の気配が、街に差し始めていた。都内最大級のホールの前には、開場の何時間も前から長蛇の列ができている。—国際共同制作映画、制作発表会。日本だけではない。海外メディアも数多く詰めかけていた。フラッシュの嵐。飛び交う各国の言語。張り詰めた熱気。この作品が、ただの映画ではないことを、誰もが理解していた。やがて——司会者の声が響く。「本日の主演を務める俳優陣の登壇です!」扉が開いた。最初に現れたのは、藤崎優。黒のスーツを完璧に着こなし、静かな存在感を放っている。続いて 結城美緒。緊張は見える。だが、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。そして 篠原夕季。一歩一歩を噛みしめるように歩いている。最後に  久遠ひかる。空気が変わった。ざわめきが、波のように広がる。美しい。だがそれだけではない。そこに立っているだけで、視線を支配する。主演女優とは、こういう存在を言うのだと、誰もが悟る。四人が並んだ瞬間、世界が、この作品を見た。フラッシュが止まらない。司会が微笑む。「では、質疑応答に移ります」最初の質問は、海外記者だった。「この映画に参加することを決めた理由は?」ひかるが答えようとした、そのとき。美緒が一歩前に出た。マイクを握る手は、わずかに震えている。だが——声は真っ直ぐだった。「……久遠ひかるさんがいたからです」会場が静まる。美緒は続ける。「私はまだ未熟です。でも、ひかるさんの背中を見ていると、不可能なんてないと思えるんです」一瞬、言葉に詰まる。それでも、伝える。「ひかるさんのおかげで、海外映画に出られます」ひかるの瞳が、わずかに揺れた。次に、夕季がマイクを取る。柔らかな笑顔。だが、その目は熱い。「私は長くこの世界にいますが——こんな女優を見たことがありません」会場の誰もが耳を傾ける。「努力を、才能で超えてくる人なんです」そして、はっきりと言った。「ひかるさんのおかげで海外映画に出られます。心から誇りに思います」静かな拍手が起こる。そのとき。優がマイクを手にした。会場の空気が変わる。低く、落ち着いた声。「この映画は、間違いなく世界に届きます」一拍。そして続けた。「理由は一つです」視線が、ひかるへ向く。「久遠ひかるがいるからです」どよめきが起きた。だが優は

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第106話「光のあとで」

    授賞式の熱気が、まだ身体の奥に残っていた。主演女優賞——久遠ひかる。自分の名前が刻まれたトロフィーを抱えながら、ひかるは控室の扉を静かに閉めた。途端に、世界の音が消える。さっきまであれほど鳴り響いていた拍手も、祝福の声も、もう届かない。ドレスの裾が床に広がる。ひかるはソファに腰を下ろした。そして——小さく息を吐く。指先が震えていることに気づいた。今さらになって、現実が押し寄せてくる。(……本当に、取ったんだ)胸の奥が熱い。だが、不思議と涙は出なかった。代わりに込み上げてきたのは、長い時間の記憶だった。売れなかった頃。オーディションに落ち続けた日々。名前すら覚えてもらえなかった現場。悔しさを飲み込みながら、笑顔を作ることだけが上手くなっていった。——それでも、やめなかった。誰にも見えていない場所で、積み上げてきた。そして、婚約者だと思っていた人に、家政婦呼ばわりされていた苦い思い出。そのすべてが、今夜、報われた。ここへ、女優という場所に戻って来てよかった。ひかるは、トロフィーを撫でる。冷たい金属の感触。そのときだった。コンコン——控室の扉が叩かれる。「……入っていいか」低い声。ひかるは振り向いた。「どうぞ」扉が開く。立っていたのは、藤崎優だった。タキシード姿のまま。ネクタイが少しだけ緩んでいる。きっと、急いできたのだろう。数秒、二人は何も言わずに見つめ合った。先に口を開いたのは優だった。「……おめでとう」短い言葉。だが、その声はどこか掠れていた。ひかるは微笑む。「ありがとうございます」優はゆっくりと部屋に入り、扉を閉めた。静寂が戻る。彼の視線が、トロフィーに落ちる。そして小さく息を吐いた。「やっぱりな」「え?」「取ると思ってたよ」ひかるは首を傾げる。「そんなに確信してたんですか?」優は迷いなく答えた。「ああ。本物だからな」その一言で——張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。ひかるの視界が揺れる。あれほど出なかった涙が、急に滲んだ。慌てて視線を落とす。見られたくなかった。役ではない涙を。すると、優が静かに言った。「……怖かった」ひかるは顔を上げる。優は、まっすぐこちらを見ていた。「お前が遠くに行く気がして」時間が止まる。呼吸を忘れるほ

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第7話 見せつける夜

    夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第3話 出会いの記憶

    黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第2話 物置部屋の夜

    次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第1話 空気みたいな女

    ――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな

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